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詩について


今日は、風のきつい物憂いな雨の一日。


ブログのタイトルとした「詩について」書くのはあまり気が進まない。かつて詩や詩誌評をやっていた時は、同人雑誌、詩集、詩に関係する本をよく読んでいたが、今は読む気になれない。わたしが詩に対して自閉気味になっているのか、現在の詩そのものが自閉しているかのどちらかのように感じている。ただ、読まなくても、「詩のボクシング」で全国各地を駆け巡って、それぞれの地方で詩に関わる活動をしている人や予選会に参加してくれている人たちの声と言葉を聴くと、詩の閉塞した状況が垣間見えたりする。

拙著『「詩のボクシング」って何だ!?』(2002年1月、新書館刊)にも書いたように、文字の詩に詩の未来を切り開く力を感じられなくなり、声としての詩の場にその先を託してみようと「詩のボクシング」を始めたわけだが、今では詩へのこだわりはなく、声の言葉の場としての可能性にその先を見たいと思っている。もちろん、そこに朗読メディア作りもある。


『日本語のゆくえ』(2008年1月、光文社刊)で吉本隆明さんは、「二十代、三十代の人の詩はもう、うわっという感じで、これはわからない。詩自体がわからないということがひとつ、もうひとつは、なぜこういう詩を書くのかということがわからない。両方の意味でわからない。今度読んだ詩でも、結構な詩でございますというか、そう言うよりほかに何もいうことがないわけです。結構な詩でもなんでもいいのですが、やっぱりなぜ結構な詩を書くんだろうということがわからないわけです」と述べている。

一昨年、ある詩の雑誌から今年の新人と呼ばれる人たち(といっても年齢幅があった)の詩を読んで感想を書いてもらいたいと依頼され、読んでみると吉本さんよろしく「結構な詩でございます」としか言いようのない、これぞ詩ですという詩の雛型を模倣する表現衝動の氾濫を目の当たりにすることになった。

また、吉本さんは、「二十代、三十代の人は過去あるいは未来にかけて何らかの意味で神話的な想像力を必要とする人あるいは集団を選ぼうなどと考えていないように見えました。そうしたことについての関心は『無』に等しいというか、少なくとも詩を見るかぎりは、何も考えていないように思いました」と述べている。ちなみに、この箇所が本の帯に「いまの若い人たちの詩は、『無』だ」と使われている。

さらに吉本さんは、「日本の詩の伝統からいったら、自然がなくなってしまったらほとんどどうすることもできないんだ」として、「いまの若い人たちの詩」に「全体の特徴としていえることは、『自然』がなくなっちゃっているということ」、つまり「自然に対する感受性がなくなってしまっている」、そのことが「どこにも出ようがない、脱出口がない」状況を生み出しているとも述べている。なるほどと思う。

わたしは自己表現における新たな脱出口を「詩のボクシング」に求めているのだが、そこで求められるのは、表現技術が上手いとか下手とかではなく、表現された言葉がどれだけ自分と深く向かい合っているか、あるいは常に自分と向かい合おうとしているかである。さらには、その結果として生まれた言葉をどれだけ声に出せているかである。聴き手も、そうやって生み出された声によってストレスを抱えた心が解放されるとでもいえる瞬間を体感したいと望んでいる。その瞬間には、表現者の感受性の新たな発見も含まれている。

以上のことを踏まえて、このことはいずれ明確になるだろうが、「詩のボクシング」の場に限らずポスト・インターネットとした新たな自然環境の中でストレスを抱えた心を解放できる表現を模索する人たちが現れてくるだろう。
 
by videoartist | 2009-03-22 17:00