自己表現について
2009年 03月 29日
表現について考えるときに、『限界芸術論』での鶴見俊輔さんの考えを参考にすることがある。
鶴見さんは、限界芸術を「非専門家によってつくられ、非専門家によって享受される」ものであるとして、その表現の様式を認める。
わたしは、拙著『詩のボクシング 声と言葉のスポーツ』(2005年8月、東京書籍刊)で「『詩のボクシング』の場も限界芸術になればいいと思っています。例えば、阿波踊りですが、阿波踊りの上手い人下手な人はいても、プロの踊り手っていないわけでしょ。それと同じように、プロが担わなくてもすむような声の場としての『詩のボクシング』を存在させたいと考えています」と述べている。
このことがまだまだ理解されていなように思う。つまり、限界とされているから可能性があるということ。しかもその限界を切り開いて行く過程に面白さがあるということを。
どうしても「純粋芸術(専門家によってつくられ、専門家によって享受される)」や「大衆芸術(専門家によってつくられ、非専門家によって享受される)」と混同されて理解されているようなところがある。
「詩のボクシング」という自己表現の場は、誰でもが参加できて楽しめる限界芸術の場であり、しかもその場でなければ生まれないものが確かにあり、そしてそれが既存の自己表現の限界を超える可能性を有したものであることを知ってもらいたいと思っている。