日々にイメージを採取する!


by videoartist
カレンダー
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31

新しい葡萄酒は、新しい皮袋に入れなければならない


今年も長崎大会が開催される。長崎と言えば、わたしには何故か隠れキリシタンのイメージがオーバーラップされる。

昨年の長崎大会はワークショップ型として行われたが、実行委員会が「詩のボクシング」の面白さを知り、今年は予選会、本大会と行うことになっている。

7月20日(月、祝日)には、初となるワークショップ型秋田大会が行われる。今のところ参加者は少ないと聞いている(まだ募集中だ)が、長崎大会のような展開になることを願っている。

c0191992_1540624.jpg
 ※大浦天主堂


「声と言葉のボクシング」で言葉に新たな命を!

「新しい葡萄酒は、新しい皮袋に入れなければならない」

これは新約聖書にある言葉。実はわたしの考えている朗読メディア作りにも、そのまま当てはる言葉ではないかと思っている。

この言葉に続く一連の文の解釈に以下のようなものがあった。引用させていただく。

「私は弟子たちに新しいワインをもたらした。私は、人々に新しい命を、新しい誕生、新しい性質、新しい喜びと祝福や、硬直した権威主義や死んだ形式主義に限定されたり、混ぜ会わせることのできない新しい福音をもたらした。あなたがたは敬虔を装っているにすぎない。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側に現れるもので人を引き付けるが、内側はすでに死んでいる権威と堕落で満ちている。私が、この世にもたらした新しい命と喜びは、これらの死んだ形式主義とは相入れないものである。」

この解釈をそのまま「詩のボクシング」の場に敷衍すれば、一般参加による「詩のボクシング」の場が正しくこの解釈を具現化していると言えるのではないか。

つまり、古い皮袋に入った葡萄酒をこれまでの活字に依存した朗読だとすれば、新たな人たちによる新たな表現としての朗読は新しい葡萄酒となる。

そして、その葡萄酒は新たな皮袋に入れられなくてはならない。

つまり、その皮袋とは、映像という袋ではないかとわたしは考えている。

振り返ってみれば、「詩のボクシング」は声の言葉による表現の場として始まり、その場に対する心ない人たちの(あえて言わせていただくなら)迫害に遭いながらも、決して押しつぶされることなくその場を理解する人たちによって広められてきた。

言うまでもなく、いくら迫害を受けようが、やや大袈裟かも知れないが、人の心を映し出す美しきものは表に現れることなくても隠れキリシタンのごとく生き続けるものなのである。

「声と言葉のボクシング」の場は、そういった場であることを確認の意味も込めて言っておきたい。
by videoartist | 2009-07-13 20:00