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10月27日の全国大会を終えて


10月27日の2つの全国大会が終わって、やっと一息ついています。

今年も多くの声の場に足を運びました。この16年間で移動した距離は、北は北海道から南は沖縄県とその間の38都府県(新潟、栃木、石川、和歌山、鳥取、島根、大分県を除く)を複数回往復したとして計算すれば、地球を優に7周半はしていると思います。光の速さだと1秒間の距離にしか過ぎませんが…。

今回初めて「詩のボクシング」を観戦していただいた多くの人から、「こうやって人の声と言葉を聴くのは楽しかった、面白かった」という感想を寄せてもらいました。リピーターの方々も、一回一回異なる全国大会を今回は今回として楽しんでくれていたようでした。

ただ、判定について理解されていない人もいるようです。繰り返しますが、「詩のボクシング」は声で表現された作品の優劣を定めているのではなく、表現する人の声と言葉のパンチが聴き手の心を打つ強さの強弱を判定していると思ってください。その場での一回限りのパンチの強弱です。声とは、発せられた瞬間に消えて行くものです。そして、その瞬間に心を強く打った声の言葉が、波紋のように身体の中に広がって行くものでもす。弱ければ、波紋を広げることはないでしょう。つまり、強弱とは、そのようなものだと考えてもらってよいと思います。

地方大会と全国大会で同じ作品を朗読する朗読ボクサーがいますが、地方大会では強く打つことのできたパンチが、全国大会では弱かったと感じることがよくあります。

これはライブという一回性の場としての特徴だけではなく、トーナメントの一回一回対戦する相手が異なることによって生じるパンチ力の強弱も意味しています。

ですから、全国大会チャンピオンが次回も同じようにチャンピオンになれるかといえば、そうはなっていません。各地方大会においても同じです。昨年のチャンピオンが、今年のチャンピオンになれるかといえば、そうはなっていません。このことからも「詩のボクシング」は、優劣を定める場ではないことが理解してもらえるでしょう。むしろ優劣など定めることが無意味だと教えているのが「詩のボクシング」の場なのです。

いずれにしても全国大会の場は16人で闘った場であり、一人として欠けてはならない場なのです。16人で作った声の場が、第12回「詩のボクシング」個人戦・全国大会なのです。もちろん、同じことが第4回「声と言葉のボクシング」団体戦・全国大会にもいえることです。

ステージ版「詩のボクシング」を上演したことについて北海道新聞に以下のことを書きました。※10月5日付けのブログで全文を紹介。


言うまでもなく、「いじめ」は子供の世界だけのことではない。大人の世界にもある。あまつさえわたしたちはありのままの世界を見ているのではない。実は脳が見たいと思っているものを見ている。つまり、先入観によって物事を見ているのである。だから、「いじめ」があっても見逃す、あるいは見間違えてしまうこともある。それ故に、「いじめ」を教員と教育委員会の責任逃れだと短絡的に決めてしまうのはあまりに危険だ。だからこそ、生徒、保護者も含めて「それぞれの心の内に宿る先入観をしっかりチェックしよう」と問い掛けもした。


「詩のボクシング」に対して先入観を持って受け止める人は、その先入観に合うように「詩のボクシング」を評価しようとします。

しかし、「詩のボクシング」は、そのような先入観、優劣を定めるためでも、勝ち負けを決めるためにだけ行っているものではないのです。

「詩のボクシング」の存在理由があるとすれば、閉塞された詩状況に風穴を開ける(これは故・筑紫哲也氏が「詩のボクシング」を評して言ったことば)ことから始まったとしても、(手前味噌かもしれませんが)それは詩状況を越えて現在の表現状況に風穴を開けたのだとわたしは思っています。さらには、日本において声の表現の可能性の道を切り開いてきたとも自負しています。

そして、この"限界芸術"としての場を閉じるとき、「もし疑わしく思うなら、我等の所業の一部始終を汝ら眼を開いて見届けよ」と言わせていただきたいと思います。
by videoartist | 2012-11-10 11:00 | 2012年個人戦・団体戦全国大会