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制度的な言葉


「詩のボクシング」の場、特に予選会でよく言っていたのは、「どこかで聞いたことがるような言葉」、「それはあなたが言わなくてもよい、あなたでないと言えない言葉を」という感想でした。

表現するとなると、詩を例にすれば、詩として認められるような言葉を書くなり、声にする人が非常に多くいます。しかし、それは詩のような振りはしていても詩ではないとわたしは感じます。だから、「それはあなたが言わなくてもよい、あなたでないと言えない言葉を」と言うのです。

詩という制度があるとすれば(詩の専門雑誌がるようにそれは実際にあるわけですが)、その制度に縛られた言葉が詩の振りをした詩を書かせてしまうのでしょう。だから詩のような振りはしていても、「それによって世界とその人が今までとまったく異なったものとして見えてくるような驚きを」感じることはできないのです。

そこでは、詩であるか、詩でないかも制度的に判断されるわけですが、その制度の外にも詩はあるのです。それは制度の網では決して掬い上げることができない。では、掬い上げられるとすれば、どうすればよいのか。その答えを求めて試行錯誤する中でわたしは、語りかける声に掬い上げを託し、既成概念を打ち破る方法で「詩のボクシング」を始めたのです。

「詩のボクシング」には、詩はないという人がいますが、その発言は詩がどのようにして生まれるものなのかをまったく意に介さない制度的にしか詩を見ていない偏見であるとわたしは思っています。これは教育者に非常に多い。教育がいかに制度的なものに縛られているか、その証のような物言いだとも思います。

もちろん、言語の制度的な教育をよしとしない教育者もいます。彼らは、「詩のボクシング」を取り入れて指導してくれていますが、詩を、あるいは表現する言葉を制度的には捉えていないからこそ、その指導ができるのでしょう。言うまでもなく、「詩のボクシング」は、詩であるとかないとか、詩の優劣を決めるような場ではないことを十分に理解した上での指導です。いわば「声としての身体の言葉をみんなで共有する」、そのための場として「詩のボクシング」を取り入れているのだと思っています。
by videoartist | 2013-03-09 10:30 | 2013年度地方大会&全国大会