日々にイメージを採取する!


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昨日はリングアナウンサーの松本さんとレフェリーの藪下くんとわたしの三人で第9回全国大会の打ち上げをしました。

これで一区切りし、次の全国大会へと向かうことになるのです。

振り返ってみると、「詩のボクシング」に関して12年以上もこうやって打ち上げを繰り返しています。ただ、三人とも仕事が忙しくなって、打ち上げの日の調整をするのが難しくなりました。

今回は全国大会から三ヶ月後になってしましました。

いろいろな話をしますが、意外に「詩のボクシング」の話はしません。しかし、話があちこち飛びながらも、内容が濃くて面白いのであっという間に時間が経ってしまいます。

そして、別れ際に、今年の個人戦・団体戦の全国大会をさらにショーアップすることを約束するのです。

今年の個人戦は言うまでもなく、団体戦・全国大会は盛り上がりますよ。

二人のリング上での動きと喋り(これには多くのファンがいる)は、テレビでは全く分かりませんが、ライブでは存分に楽しんでもらえるのです。

期待してください。

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※左からパブロ・サンチェス・松本リングアナウンサー(福音館書店編集長)と藪下秀樹レフェリー(宝島社名物編集者)
by videoartist | 2010-02-25 19:30 | 「詩のボクシング」

来年、滋賀大会開催か!?


今年は大会が行われませんが、2011年には香川大会と高知大会が開催される予定です。香川大会は日程も決まっています。

こうやって大会に出場した人たちが、声と言葉の場で覚醒した純粋な魂の行き場を求めて新たな場を作ってくれるのです。

そして、その場では、純粋な魂の普遍的存在を信じ、その存在を消滅させないために言葉を紡ぎ祈りのように声にしているとわたしは感じています。

純粋なものなどこの世には存在することはない、その祈りは虚しい、という人もいるかもしれません。しかし、わたしはそうは思いません。なぜなら、その声に身体が触れることによって、純粋さとしかいえないものを確かに覚醒させてもらっているからです。また、その覚醒は言葉の意味とか表現技術の範疇にあるものではなく、言葉以前のものが成しているようにも感じます。

第9回全国大会の準チャンピオンの吉川詩歩選手の声には、そのことを覚醒させる力がありました。


ところで、昨年の滋賀大会代表の木村泰崇選手から下記のメールが届きました。


昨年の全国大会の、たとえば東京代表、たとえば神奈川代表のパフォーマンスを見ていて聞いていて、つくづく思ったのですが、「詩のボクシング」というイベントを、それが「自己表現」、自我の壁、自我の殻を打ち破っていく場としてとらえた時、ある意味マックスに、リミットに達しているというか、もうこれ以上におのれの魂を他者に向けて開いていくスタイル、スタンスはあるのだろうか?もう「詩のボクシング」個人戦もある意味「果て」までいってしまったのではないか? ……という気がしてしまったぐらいでした。

それだけ私にとって、昨年の東京代表と神奈川代表のパフォーマンスはインパクトのあるものでしたし、心が震えるものでしたし、この感動、このショックは、一昨年の全国大会では味わえないものでした。東京代表の朗読を耳にしながら私はあの尾崎豊のステージを思い出していて、また、神奈川代表の朗読を耳にしている時はあの中島みゆきのステージを思い出していました。

楠氏が10年「詩のボクシング」をやってこられて、その10年という歳月、10年という歴史が、この「自我の飛翔」というか、「自我の爆発」をステージ上に結晶させたのではないか、そんな思いを抱きながら、朗読者のパフォーマンスに耳を傾けていました。

詩を書く人間にしろ散文を書く人間にしろ、つまるところは、おのれの魂をいかにして他者の前に開いていくか?というその一点に入り込んでいくところがあるように思います。そのベクトルの中において、ある意味、昨年の「詩のボクシング」の全国大会の個人戦は、もうリミットまで達してしまっていたように思えてなりません。

だから、楠氏は、ベクトルを「団体戦」へと移行しているのではないか?そこから「新しいもの」を発見しようとされているのではないか?私には、そんな気がしてなりません。

滋賀大会は、今年はムリですが、来年は、必ず「第6回」を実現させたいと思っています。12月に、ほんじょう氏と居酒屋で「これからの滋賀大会に向けて」の二者会談を行い、「第6回」に実施を誓い合いました。来年、また、よろしくお願いします!      

滋賀 木村泰崇

木村泰崇選手のメールには、朗読と同じように力強さを感じます。いつも何かを確信しているように感じるのです。たとえその確信が的外れなものであったとしても、実に心地よいのです。なぜなら、確信する心が唯一人を救う手立てでもあることを彼は知っているからでしょう。

来年の滋賀大会開催を木村選手の確信に期待しましょう。
by videoartist | 2010-02-22 21:30 | 「詩のボクシング」

ふつうがえらい!


「『詩のボクシング』の目指してきたものとは」として書きましたが、「詩のボクシング」そのものについては、多くの声と言葉に託された真摯な気持ちに触れながら、いつの間にか終わっているところがいいと思っています。勝ち負けでも、どちらが正しいかでもなく、ひとつのことにもいろんな見方、味わい方があることを知ることができます。観戦しているだけでも、その見方、味わい方の数が増え、試合を振り返っても楽しいものです。

と言いつつも、では、いまやっていることのその先はと尋ねられると、まったくもって分からない。
いまこれがやりたいというエネルギーが身体の中から湧いてきて、そのエネルギーがわたしを突き動かし、やりたいことをやっているだけだと思います。
だから、この先のことは分からない。
まったく違っていることをやり始めるかもしれないし、何もやらないかもしれない。
わたしは何事もやりきる必要はないと思っているのです。
やり切ろうと思った途端にそのことが駄目になってしまうように感じるのです。

絵本作家の佐野洋子さんが「ふつうがえらい」という本を書いていますが、そのふつうがえらいとする考え方がいいです。佐野さんとは、一時よく話をしましたが(かなり深いところまで)、わたしは佐野さんの人の見方が好きです。人については佐野さんから多くのことを学ばせてもらっています。だから、佐野さんの言葉をよく思い出します。ふつうに生きることは、日々を淡々と重ねられる強さでもあると思います。ところが、何かをやり切ろう、あるいはやり抜こうと思った途端にふつうであることは消えてしまう。

そして、わたしがたどり着きたいところも、ふつうでいられること。そうなれるかどうかは分かりませんが、ふつうに生活することに憧れます。

そこに向かって行くことで自分が救われるように思います。

しかし、そこへの近道はなく、どうやらいまやりたいことを身体に聞きながらやり続けるしかないようです。そして、その時が突然やってくるようにも思います。


2月20日は、岡山県津山市で講演会です。
人との繋がりついて話そうと思っています。
山陽新聞(2月12日朝刊)にもそのことについて書きました。「声と言葉のボクシング」団体戦についても紹介しています。
 ↓
c0191992_62844.gif認め合える繋がりを
by videoartist | 2010-02-18 09:00 | 「詩のボクシング」

今後は、「詩のボクシング」から「声と言葉のボクシング」へと表現への本質的なところでの関わりを移行させようと思います。それは、個人から団体へということではなく、「詩」の中に「詩」はなく、「詩」の身体性に回帰することによって、つまり「詩」を「声と言葉」の状態に戻すことによって表現を引き出すことを意味します。

その「詩」の身体性に回帰した先には、下記に引用する「人との繋がりをどう作り出せるのか」の難問が待ち構えているように思います。しかし、この道は(幾度となく分かれ道に出会うでしょうが)進むしかありません。


[2月20日の岡山県津山市での講演会に向けて山陽新聞に書いた原稿からの部分引用・2010.2.12朝刊掲載]

児童生徒の暴力行為が再び増加しているという。昨年11月30日に全国の小中高校が2008年度に確認した児童生徒の暴力行為は約6万件で、前年よりも7千件近く増えたと文部科学省が発表した。それによると、「いじめ」の件数は年ごとに減少しているが、人とコミュニケーションがうまくできない、あるいは感情が制御できないことによる暴力行為が急増しているとのこと。しかも、人と繋がることができず、集団ではなく個人での暴力行為が増えているのだそうだ。

わたしは、その根本の原因は、自分の気持ちをうまく言葉に置き換えられないことにあると思っている。それは自分を客観視できないことでもある。もちろん、自分の心の内を言葉に置き換えられたとしても、その言葉を受け止めてくれる人が周りにいなければ、本当の意味で自分の気持ちや感情を制御することはできないだろう。

振り返ってみると、1980年代後半のバブル景気以降物欲が優先され、多くの日本人は自分のことだけを考えるようになってしまった。そのことにより人に対する優しさや思いやりを欠き、今に至って児童生徒の暴力行為の増加のみならず大人が身勝手な犯罪を引き起こすまでになったのではないか。

深刻なのは、自分を守るために自我の城を作り、その城の塀を高くすることによって人を排除してしまっていること。このままでは、結局のところ自滅にまでたどり着いてしまいかねないと危惧する。言うまでもなく、人と相互に認め合うことがなければ自分という存在も成り立たないからだ。

では、どうすればよいのか。人が相互に認め合える繋がりを今一度作り、その繋がりの中に自分を投げ出してみる必要があると考える。



また、昨年は一般参加の「詩のボクシング」を始めて丸10年を迎えました。そのことについて毎日新聞に書いた「『詩のボクシング』の10年:「声の文化」復権へ一石」と題された原稿が英訳されていました。上記の引用とも連鎖しています。

[下記は日本語原文の一部]

「詩のボクシング」を始めた頃(ころ)の詩の読み方は、声を出すよりも黙読が勧められていた。しかし、我々は文字の言葉だけではなく声の言葉も使っている。そして声の文化、声の型というものを生み出してもいる。

声で表されたものは、メモに走り書きされるように残るものではない。だから記憶できるように型に嵌(は)める必要があった。その型とは、強いリズムや反復、対句を用いたり、韻をふむといった方法を生み出すことであり、これが詩の起源ともなっている。また、人の記憶しやすいものに格言や諺(ことわざ)があるが、それらも声の文化の中で培われた型である。もちろん、声の文化は常に人とのコミュニケーションと結びついている。

ところがこの間、私が強く感じているのは、我々は人と交わることが苦手になり、声の型を崩してしまっているということ。このことが対人関係においても様々な社会問題を引き起こしている。では、どうやって声の型を修復できるのか。それにはやはり互いに声を受け止め合える関係を築けるようになるしかない。


'Poetry boxing' gives communication skills a jab of confidence

A "boxer" recites as her opponent looks on at the 7th annual national poetry boxing competition in 2007. (Photo courtesy of the Japan Reading Boxing Association)In 1997 I held Japan's first "poetry boxing" competition, in which two readers compete against each other to see whose voice and words resonate most with the audience. The event attracted public attention at the time thanks to the participation of professional poets and novelists like Shuntaro Tanikawa and Masahiko Shimada.

After what we called the World Lightweight Championship match between Shimada and the musician Sunplaza Nakano was televised in 2001, the transvestite performer Akihiro Miwa praised the event as an indication that people were finally capable of entertaining themselves in such ways in Japan. When poet Yasuki Fukushima and I fought it out in a mixed poetry tag team match in 2000, the late journalist Tetsuya Chikushi introduced the event on his signature news program "News23," saying that poetry boxing would prove to be "a breakthrough in the current poetry situation."

Seeking to provide a forum not just for professionals but for members of the general public to share their voices and words, in 1999, I established a tournament system with a new set of rules. With this, I was able to realize my dream of creating a place where participants from the public with a variety of occupational backgrounds, ranging in age from their teens to their 80s, could encounter and bond with each other.

The creative appeal of the tournament and its participants spread through word-of-mouth in the 10 years since then, and as a result, we now hold regional poetry boxing matches in 35 prefectures that lead up to an annual national competition. Moreover, elementary, middle and high schools across the country have begun to host their own poetry boxing matches as a way of cultivating students' communication skills.

Around the time poetry boxing competitions were begun, people were commonly being advised to read poetry silently to themselves. However, our relationship with words is not limited to what is written, but extends also to what is spoken. And it is these spoken words that have created the culture of speech, as well as vocal forms.

Words that are spoken do not linger like words scribbled on scraps of paper. In trying to commit spoken words to memory, people stylized them. This was how different rhythms, repetitions, couplets and rhymes -- said to be the origins of poetry -- emerged. Easily memorized aphorisms and proverbs are also vocal forms developed in the culture of speech.

Naturally, verbal culture is constantly linked to interpersonal communication. However, I have recently become acutely aware of a common reluctance among people toward interactions with others, leading to the collapse of vocal forms, which in turn has given rise to a multitude of social problems.

So how can we restore vocal forms? To accomplish such a feat, we must, not surprisingly, forge relationships in which we can hear and accept each other's words. Poetry boxing competitions are not just opportunities to enjoy voices and words, but vehicles for social rehabilitation.

My hope is for greater numbers of people from all over the country to participate in poetry boxing, and to popularize team competitions -- because they allow for more voices to be heard and shared. (By Katsunori Kusunoki, poet, video auteur and president of the Japan Reading Boxing Association)

(Mainichi Japan) November 24, 2009


by videoartist | 2010-02-12 23:00 | 「詩のボクシング」

立松和平さんが亡くなった。その訃報に驚いています。立松さんと話すと心が温まりました。あの朴とつとしたしゃべりが心にも浸み込んできました。その声を「詩のボクシング」の場でも聴いてもらいたいと朗読ボクサーとしてリングに立ってもらったこともあります。また、ジャッジもやっていただきましたが、いずれも勝ち負けを超えて「詩のボクシング」を楽しんでくれていました。まだまだいろいろな仕事をなさりたかったでしょうが、残念でなりません。

立松さんが朗読ボクサーとしてリングに立ったのは、史上初となる「詩のボクシング」タッグマッチでした。昨年、そのタッグマッチが発展した形となって「声と言葉のボクシング」団体戦・全国大会が行われました。

立松さんが参加したタッグマッチは、本当に楽しかった。立松さんとタッグを組んだ歌人の福島泰樹さんのチームは負けましたが、立松さんの人柄もありますが、「詩のボクシング」は負けても楽しい場なんだよ、そういった場なんだよと励ましていただきました。試合の後の打ち上げでも、「詩のボクシング」の遊び心を称える話をしていただき、わたしは「詩のボクシング」をやり続ける勇気を授けてもらいました。あの声を聞けなくなるのがさびしいです。

立松さんが残してくれたといっても過言ではない団体戦ですが、今年は全国から出場者を募ります。「詩のボクシング」とは異なり、「声と言葉のボクシング」団体戦は誰でもが大会を開く、あるいは団体として応募、または団体を推薦することができます。もちろん、全国大会にはすべてのチームが出場できるわけではないので、出場できる8チームの最終選考は日本朗読ボクシング協会が行うことになります。

ちなみに、一昨年の全国大会準チャンピオンの土屋智行くんが、京都で「声と言葉のボクシング」団体戦の大会の準備を進めてくれています。京都でいきなり団体戦ですが、開催にこぎつけることを願っています。でも、土屋くんならやってくれるでしょう。ところで、土屋くんのような全国大会準チャンピオンでトーナメントをやってみても面白いのではないでしょうか。表現力ということでは、チャンピオンよりあるようにも思えます。

振り返ってみると、「詩のボクシング」は通常の大会のほかに選抜式としての大会も行ってきました。それは、人の声と言葉の表現をもっと楽しんでもらいたいという思いからです。

そして今回、新たにステージ版「詩のボクシング」を始めるにあたって、実は選抜式ではなしえなかったことを実現できればという思いがあります。つまり、新たにできる劇場での定期的な公演を通して、そこに出演する人たちが自立した表現者としても認められるようになればと考えているのです。

「詩のボクシング」は限界芸術の場を目指しますが、そこからはみ出る表現をステージ版「詩のボクシング」では拾い上げることを目指すといってもよいかもしれません。


-----------------(過去のブログより)----------------------------------------------------------------------------------------

2000年9月17日に、「詩のボクシング」タッグマッチとして作家の立松和平さんと歌人の福島泰樹さんのタッグチームとわたしと超歌唱家の巻上公一さんのタッグチームで対戦したことがあるが、チームワークで表現することの楽しさを観客と共有できた。個人戦の「詩のボクシング」とは違い、声と言葉の格闘技としての新たな醍醐味がそこにはあった。

この団体戦をきっかけに団体戦出場チームを全国から募り、大会が開催できるようになればと考えている。

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 ※史上初のタッグマッチのチラシ表面。この頃はプロの大会として「詩のボクシング」は行われていた。
by videoartist | 2010-02-10 08:00 | 「詩のボクシング」

2月26日(金)、27日(土)、28日(日)に学生短編映像作品上映祭2010を開催!

学生が自主制作した短編映像作品の上映祭を毎年行っています。関東学院大学の他(多摩美術大学、早稲田大学、東京大学等)の作品も招いてのコンペ形式で観客に最も良かった作品を選んでもらいます。

STUDENT SHORT MOVIE FESTIVAL 2010 in Yokohama
2010年2月26日(金)、27日(土)、28日(日)

YouTubeからMeTubeへ! 
You と Me が出会えるショートムービー上映会

c0191992_62844.gifhttp://www.brillia-sst.jp/

会場:ブリリア・ショートショートシアター
みなとみらい線「新高島駅」徒歩5分、「みなとみらい駅」徒歩6分
JR桜木町駅からも歩けます!
横浜市西区みなとみらい5-3-1フィルミー2F
TEL:045-633-2151

入場料:全プログラム無料
主催:SSMF2010実行委員会
メール・ssmf2010@aol.jp

バンドのPV(プロモーション・ビデオ)をスクリーン全面に映し出します。銀杏BOYZ、rega、OGRE YOU ASSHOLE、おとぎ話などのバンドが面白いPVを提供してくれています。

2月26日(金)は、19:20よりイベント(下記のタイムスケジュールで)

21:05からMeTube的トークのゲストに島田昌典さんが忙しい中、時間を割いて来てくれます。Aikoやいきものがかりのサウンド・プロデューサーで、aikoの曲のほとんどの編曲を担当しています。

そして、関東学院大学に在籍したことのあるあの伝説の歌姫、戸川純さんもやって来ます!

19:20 開演 PVは音楽活動に役立つのか? 基調報告:楠かつのり 
     バンド・銀杏BOYZ、rega、OGRE YOU ASSHOLE、おとぎ話などのPVを上映する。
19:55 インディーズバンドのジギタリス、Ramune
     ウォーター・メロンズ(関東学院大学生バンド)によるミニライブ
20:35 楠&戸川ミニトーク
     戸川純(ヴォーカル)+デニス・ガン(ギター)によるミニライブ
21:05 楠&島田ミニトーク
     島田昌典(キーボード)+back numberの清水依与吏(ヴォーカル)で弾き語りミニライブ
21:45 終了

☆MeTube的トークショー

島田昌典vs楠かつのり

トークゲスト:島田昌典(しまだ・まさのり) 
サウンドプロデューサー、アレンジャー、キーボーディストと少しギターとベース。aiko、いきものがかり、秦基博などのサウンドプロデューサー。数々のヒット曲を手がけており、せつなポップを得意としている。[一例]カブトムシ(作詞・作曲:aiko、編曲:島田昌典)、KissHug(作詞、作曲:aiko 編曲:島田昌典)、いきものがかり:ふたり(作詞・作曲:水野良樹 編曲:島田昌典)、心の花を咲かせよう(作詞・作曲:山下穂尊 編曲:島田昌典)の他にアンダーグラフ、スガシカオ、TOKIOなどの編曲、アレンジを担当する。

日  程: 2月26日(金)-28日(日) 
時  間: 2月26日(金) 19:20-21:45
時  間: 2月27日(土) 13:10-16:30 ABCプログラムの上映
時  間: 2月28日(日) 13:10-16:30 DEプログラム上映と各プログラム優秀作品をFプログラムで上映
入場料:無料 ※27日、28日のイベントは当日13:00〜チケット配布。
※各日詳細スケジュールはフライヤーで確認。

27日プログラム

Aプログラム

1、「RIVAL」
  チーム赤ずきんと健康
  13分
2、「草食ボーイズ」
  放送研究会(関東学院大学)
  5分29秒
3、「dawn」
   酒井梨歩(多摩美術大学)
  11分28秒
4、「わたしたちの事情」
  いち☆けい
  10分
5、「ポストカード」
  A班
  5分弱

Bプログラム

1、「見た目が9割」
  B班
  19分5秒
2、「WHAT IS THIS?」
  M
  7分
3、「夢を追う人々」
  まゆげ
  15分
4、「部屋」
  角尾宣信(東京大学大学院)
  14分

Cプログラム 

1、「Amaretto」
  浪人街
  小峰健司(早稲田大学)    
  18分5秒
2、「magnet」
  樋口班
  6分37秒
3、「白くなる」
  若者を救う隊
4、「ズレ」
  CINEMAX SIDEVARG(早稲田大学)  
  11分2秒
5、「夢幻回廊」
  D班
  8分40秒

28日プログラム

Dプログラム

1、「写真」
  花咲フレンド
  13分
2、「FIRST LIFE」
  菫偉(横浜デザイン学院)
  7分24秒
3、「シュート君」
  C班
  13分9秒
4、「光、みつめる~与那国~」
  ヂャオ・イー・シャオ
  6分47秒

Eプログラム

1、「ハッピークラウン」
  七人のぴーぽー
  19分
2、「Cellphone」
  伊藤大将(Temple University [Philadelphia])
  7分25秒
3、「Dive into wonder land」
  チーム小牧
  12分


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by videoartist | 2010-02-09 10:30

7月31日(土)の午後1時から長崎市の長崎市立図書館で自分の声と言葉で表現して楽しむワークショップをすることが決まりました。図書館の担当者の方は、「詩のボクシング」のことを知っており、以前からワークショップができないものかと考えていたそうです。今回それが実現することになり大変喜んでいました。このワークショップから長崎大会に参加する人も出てくるのではないかと期待しています。

この図書館でのワークショップを終えた翌々日の8月2日には、宮崎で開催される全国高等学校文化祭の中で行われる「詩のボクシング」高校生大会に行きます。今回はどんな大会になるのか、全国から集まってくる高校生朗読ボクサーの声と言葉が楽しみです。

「詩のボクシング」の場は、リングに上がった人たち全員で作るものです。トーナメントの結果としてチャンピオンは決まりますが、同じ人たちでもう一度トーナメントを行えばまた違うチャンピオンが生まれます。実はこのことは過去に一度、二試合制・選抜式全国大会で実証されています。要は、「詩のボクシング」におけるチャンピオンは確定された地位を持った存在ではないということです。つまり、「詩のボクシング」は、チャンピオンを生み出すことはあっても、そのことを価値化することを目指しているわけではないということです。

「詩のボクシング 声と言葉のスポーツ」(東京書籍刊)の本の中でわたしは、

「『詩のボクシング』の今後についてですが、これはあまり言っていませんが、鶴見俊輔さんの『限界芸術論』という本があって、そこで鶴見さんが言っている限界芸術に共感するところがあります。実は『詩のボクシング』の場も限界芸術になればいいと思っています。例えば、阿波踊りですが、阿波踊りの上手な人とか下手な人はいても、プロの踊り手っていないわけでしょ。それと同じように、プロが担わないですむような声の場として『詩のボクシング』を存在させたいと考えています。そして、今以上に多くの老若男女に参加していただいて、何よりもまず人の声を楽しんでもらえる場にしたい。さらにはその先に、新たな声の文化が生まれることを願っています」

と語っています。この考えは今でも変わっていません。むしろ、ここで語っている場のあり方が「詩のボクシング」の場として目指していることなのです。

さらにいえば、「詩のボクシング」は、声を発する人たちが互いに声を合せることによって聴き手である人たちに出会う媒介の場として成り立てばよいと考えています。媒介となれば、その場はその場に関わる人たちによって常に変化します。チャンピオンも同じです。その証とでもいえるでしょうか、各地の大会のチャンピオンは、次の大会では予選会から出場しなくてはならず、予選落ちすることもあるのです。それでも声の場を楽しんでくれるところが、いいのです。そこが限界芸術の魅力でもあるのです。

そして、そのことが意味しているのは、勝ち負けを超えたところで発せられる声こそが「詩のボクシング」の目指す声なのだということです。
by videoartist | 2010-02-06 22:30 | 「詩のボクシング」

3D(立体)映画「アバター」が、これまでのCGを用いた映画では出せなかった現実感(2次元の世界からすれば超現実ともいえる感覚)を出すことに成功し、しかもそのエンターテインメント性が受け入れられ、多くの観客動員に繋がり、映画の興行収入で世界トップになったことが伝えられています。

この3D映画は、どこか実験的な要素が残されていたこれまでのCGあるいは立体映像の領域を脱して、エンターテインメントとしての新たな映像世界を切り開いたことになるとわたしは評価しています。

もちろん、映画の世界のみならず実験的なものは必要です。既存の表現ジャンルにおいても実験的な試みは大いに行われなくてはならないと思いますが、旧態依然とした枠に収まっているものを果たして実験と呼べるかといえば、それは実験の振りはしているが実は実験ではない、としかいえないのではないかと思います。

自作朗読においても同じことがいえます。旧態依然とした枠の中で、あるいはその枠内での人との閉じた関係性(自己実現できない不満を人に当たり散らすなど)によって表現をしても、そこからは何も新しいものは生まれないでしょう。

その点において「詩のボクシング」は、旧態依然とした枠に収まるのではなく、また人との閉じた関係性に居座るのでもなく、賛否両論はあっても(それがあるが故にということもありますが)、旧態依然とした枠を打ち破り、その外にこれまでにない表現を楽しめるエンターテインメントな場を作って来たと自負しています。

そのことは、全国から会場に駆け付けて来て「詩のボクシング」を楽しんでくれる観客がいることで少なくとも証明されるのではないかと思います。

振り返ってみると、「詩のボクシング」を始めたころ、詩を声に出して読むとはけしからんとよくいわれました。信じられないでしょうが、知的レベルとしては、活字は声に出して読むよりは黙読できることのほうが高いとされていたのです。

また、朗読はパフォーマンスではないともよくいわれました。このことは、黙読と音読のアナロジーとして武家階級に愛された能と庶民文化の花であった歌舞伎の動きの表現にその違いにみることもできるでしょう。つまり、能は動きが刈り込まれ、表現が研ぎ澄まされていますが、歌舞伎はその点約束事が少なく、受け手に知的レベルの高さを求めない分だけ動きが大きくなっています。そして、敢えていわさせていただくなら、庶民が楽しむ「詩のボクシング」、その場では朗読者が歌舞伎のように庶民に受け入れられる大きな動きをしてもよいということになります。だからといって知的レベルが低いとはまったく思っていませんが。

さらに、商標登録についていわれたこともありました。最近のニュースでも歴史上の人物の名前の商標登録について話題になりましたが、実は「詩のボクシング」の名称についても、2000年にその名称を東京にある旗を作っている会社が商標登録をしようとしていました。もちろん、「詩のボクシング」という名称は歴史上の人物の名前ほど認知されているものではなかったので(テレビ、ラジオ、新聞、雑誌などのメディアでは数多く取り上げられていましたが)、その時は誰であっても登録できたかもしれません。しかし、それをされてしまうと「詩のボクシング」の大会は、すべてその会社に許可を取って行うしかなくなってしまいます。そこで対抗措置ではありませんが、その名称の登録をわたしが買い取るような形でするしかなっかたのです。もちろん、そのことが不利に働いたわけではなく、結果論ですが、商標登録したことによって、他の大きなスポンサーを持ったイベント会社や団体などの営利目的の乱用や悪用から「詩のボクシング」の場を守ることができました。

[朝日新聞2010.1.26の記事]より

 吉田松陰らの名前は、東京都渋谷区の会社が2007年11月、乳製品や肉、野菜、ビールなどに名付けられるよう商標登録。萩市では、観光土産品などに3人の名前を使う場合は同社に使用料を支払わざるを得なくなり、同市が08年2月に異議を申し立てた。
 中原中也については、宮城県の飲料製造業者が07年に商標登録を出願していたことが判明。出願は却下されたが、山口市は昨年2月、中也の名前が独占的に使われるのを防ごうと、菓子や文房具類などについて「中原中也」と「中也」の商標登録を出願した。
 特許庁から両市に届いた通知などによると、同庁は、こうした歴史上の人物の名前の商標登録を認めれば、「観光振興や地域おこしなどの公益的な施策を阻害し、社会公共の利益に反する」と判断。萩市の異議申し立てを認めて登録を取り消し、山口市の出願は拒絶すると通知した。
 萩市は「当然の主張が認められた」、山口市は「独占使用を防ぐ当初の目的は達成された」と、いずれも一安心している。

by videoartist | 2010-02-03 10:30 | 「詩のボクシング」