朗読メディア作りについて
2009年 06月 23日
これまで開催された本大会では、朗読ボクサー2人ずつの自作朗読を映像で記録している。
大会が始まる前や終わってから、静かな緊張感が漂うあるいは試合の熱気がさめやらない中での記録だが、皆さん実にいい持ち味を出している。
記録をしながら、自作朗読は紙の上の文字としてではなく、また音声だけでもなく、映像として記録するのが最も理にかなっていると感じている。
なぜなら、「詩のボクシング」で行った朗読を文字として紙の上で味わっても、そのよさはほとんど伝わらないから、また表情のない音声だけでも物足りないところが出てしまうから。
わたしは、この朗読メディア作りも広めて行きたいと思っている。
文字がない時代には声の言葉があり、そこには詩もあったはず。文字が生まれ紙が作られ印刷技術によって文字としての詩が、そこに生まれた。
そして映像によって声としての新たな詩、いや、それを詩と呼ぶことも定義する必要もない。声の言葉によって生み出される新たな作品の姿なのだから、それを前もって名付ける必要はない。名付けるとしても、それは後回し、その姿が見えてきてからのこと。
かつてわたしがビデオ詩集「顔」でそのことを試みたように、再び「詩のボクシング」の声の場から、その新たな作品の姿を探し求めて行きたい。