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2009年3月21日のブログから 朗読について


4年前の2009年3月21日のブログを転記します。

今日は暖かい一日だった。
犬と散歩しているとつくしを見つけた。
子どものころ見たものとなんら変わらない姿に安心する。
変わらないものを愛おしく感じるようになった年齢なのかもしれない。


今日のブログのタイトルにした「朗読について」だが、最近、図書館から古い本を借りて読んでいるのだが、その中に朗読と音読の区別をしているものがあった。

おおざっぱにまとめると、教育現場では、小学校低学年では、言葉の意味を考えるのではなく、まず文字を音として読む音読をすすめ、それから意味を考えて読ませる黙読にすすむ。

朗読ができるようになるのは、小学校高学年からとなっている。ここでの朗読とは、感情を入れて文字を読むことで聞き手にその内容を伝えることであるとされている。この「感情を入れて文字を読む」のは、小学校中学年からでもできるだろうが、(感情移入は経験によってその微妙な色合いも出せるようになるので)年齢を重ねるほど表現がよくなるということなのだろう。つまり、人生経験が朗読の表現に広がりを持たせることになるということ。

音読は文字の内容を他者となる聞き手に伝えることではなく、自分の理解のためにするものであり、朗読は他者である聞き手に作品の内容を伝えるために行うものであるということ。40~50年前はそのように考えられていた。


では、そもそも日本で朗読というものがいつ頃から行われるようになったのかと言えば、1920年代の前半ということになる。日本国内においては、言文一致運動(文語体ではなく、日常の話し言葉に近い言い回しの口語体で書く運動)が起こり、口語体の散文や詩が書かれるようになったことが背景にあるが、欧州での俳優が朗読をして観客を集めているという情報なども影響を与えている。

高村光太郎は、明治大正期の詩朗読を「朗読というよりも多くは朗吟であった」と振り返っているように、その頃は朗読というよりも詩吟のように歌うものであったのだろう。だから朗吟とも言われていた。

これは朗詠とも繋がることになるかもしれない。朗吟も朗詠と見做せば、話が一気に平安時代へと飛ぶことになってしまう。

[註:朗詠(雅楽の一。漢詩に曲節をつけてうたう自由なリズムの謡物。平安以降、管弦の遊びの折などに行われた)の詞章となる詩歌を集めたものに「和漢朗詠集(歌謡集。2巻。藤原公任撰。1013年頃成立。朗詠のための漢詩約590句および和歌約220首を、四季・雑に分け、それぞれをさらに細かく分類して収めたもの)」がある。]

話を1920年代に戻すと、1924年に「詩人の日」と題された<詩人自作朗読会>が催されている。主催は築地小劇場で、企画したのが小山内薫である。参加者には、島崎藤村、与謝野晶子、野口雨情などがおり、実際に朗読したという。また、他の参加者には北原白秋、萩原朔太郎、日夏耿之介などもいたが、広告チラシによると朗読の承諾を得ていないとされていた。さらに、音楽として山田耕作が参加しており、「山田耕作氏伴奏の下に荻野綾子嬢の詩の独唱があった」とされている。会場には500有余名の観客が集まったそうだ。

この日が日本での詩人による自作朗読会のはじまりともなるが、はじまりから朗読と音楽、そして演劇が絡んでいたことが非常に興味深い。
by videoartist | 2013-03-22 17:30 | 2013年度地方大会&全国大会