2017年10月に「詩のボクシング」が20周年を迎えるに当たりその歴史を振り返る!
2015年 10月 17日

今や「詩のボクシング」と現代詩は出発点は同じ詩=ポエジーではあるが表現メディアとしてはまったく無縁であるのに、詩という言葉あるがために関係づけて語る人がいます。そこには声の言葉によって新たな表現を発見する場である「詩のボクシング」が積み重ねてきた実験ともいえる歴史を踏まえないために身勝手な誤解が多々あるように感じています。
ところで、わたしが現代詩状況に失望し始めたのは、詩が知識によって書かれるようになったことと知識によってのみの詩批評しか成り立たなくなったところに原因があります。その結果として、批評性もなく互いを褒め合うなれ合いが(内省もなく)行われようになりました。そういったこともありますが、実のところ世間的評価を気にするがゆえに保守的になり過ぎて面白みがなくなったことに失望したといった方がよいかもしれません。それよりも、たとえ孤立無援であったとしても、どのような批判を浴びるとしても詩を外へと連れ出し、新たな世界を発見することを求めるのが詩人ではないかと考えています。そのためには詩は文字として紙に留まる必要はなく、紙以外のメディアに表現の場を変えても継続的に行わなくてはならないとわたしは考えています。
吉本隆明さんが、「悪人正機」(話し手:吉本隆明、聞き手:糸井重里)の中で言っていることに同意できることが多々あります。
「僕があんまり詩を書かなくなっちゃったことを正当化する理由があってね。詩の世界って、たくさん賞があるんです。もういろいろあってさ。で、他のジャンルではそんなことはなにんだろうけど、選者が自分たちでもらっちゃうんだよ。かわりばんこみたいにして。賞をあげたら、この人には励みになるっていう人にはやらねえで、てめえたちが勝手にもらっちゃう。そんな貧しさが、イヤになった理由のひとつなんです」
この指摘にも現代詩の身内主義的な閉塞感が表れています。
続けて吉本さんは、
「あと、やっぱり、銭をとれないってことが悪い意味で作用していますね。たとえ銭を取れなくてもいいものを書くっていうならいいけどさ。それがいい加減なものを書くことにつながっちゃうのが、もうひとつの理由ですね」
と言っています。この「いい加減なものを書くことにつながっちゃう」ことにも現代詩の閉塞感を生み出している大きな原因があると思います。
実は、吉本さんが言っていることと同じようなことを拙著「詩のボクシング 声の力」(1999年刊)に書いています。
ちなみに、「詩のボクシング」の出発点では、身内主義的な閉塞感を打破するためにいろいろな人が参加できる風通しのよい場を作ることに主眼を置きました。つまり、同じ人が集まるだけの場にしたくはないということです。
ですから、「詩のボクシング」の地方大会での募集で同じ人しか応募参加しなくなった時、それは仲間だけで楽しむカラオケ状態になってしまいかねないことでもあるので、「そうなれば『詩のボクシング』を止める」と公言もしています。(ちなみに2015年9月12日にバロー文化ホールで行われた岐阜大会では3分の2以上が初めての応募者でした。今のところまだ大丈夫です。)
吉本さんも、「同質の者が集まって作る世界は傷つくこともなく快適ですが、先が閉じています。発展して行く余地がないのです。いくら立派な理由があって作った集団でも、始末におえないものになってしまう恐れがあります」と言っていますが、わたしもその通りだと思います。